
History
知っておくべき神楽坂の歴史!
神楽坂の歴史
1300年ごろに神楽坂を居城とした豪族が見晴らしの良い台地に牛込城を築いたのが神楽坂のはじまりである.武器づくりの職人が住み兵器庫のある兵庫町が作られた.この当時から現在の神楽坂は町を形成していたといわれている.
江戸時代,大老の酒井忠勝が坂の上の矢来町に屋敷を拝領し,坂の下から屋敷までの沿道は,武家屋敷として地割された.この道こそ現在の神楽坂通りである.明治期になり,武家屋敷が撤去され,急な階段もあった神楽坂はゆるやかな坂道に変わったものの,路地などの地割は現在も残っている.昭和になると神楽坂の花柳界は最盛期となり,現在でも料亭が多く存在する有数の街となった.
参考文献:スタジオワーク,『東京さんぽ図鑑』,朝日新聞出版,2017
三井住友トラスト不動産,”神楽坂の賑わい”,このまちのアーカイブス,https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p03.html

景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション

新宿区歴史博物館,「写真で見る新宿」神楽坂下交差点,https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=9109

まちあるき実行委員会撮影

広重『牛込神楽坂之図』国立国会図書館デジタルコレクション参照

まちあるき実行委員会撮影
神楽坂の地割と道
明治時代に毘沙門天(善国寺)に向かう参拝客賑わう繁華街であった.
現在でも明治創業の老舗(文具屋,草履屋,陶器屋)が残っていて,神楽坂の雰囲気を今に伝えている.神楽坂通りを少し入ると料亭が集積し,著名な文筆家が通ったことでも知られる料亭が今でも残っている.
神楽坂通りは,尾根道になっていて,どの路地に入っても下り坂になっているため,地形によって奥への視線を遮り,期待感を演出している.地形だけでなく,花街の出入り口は,路地が急に細くなっており路地に身を隠すことができる.
参考文献:スタジオワーク,『東京さんぽ図鑑』,朝日新聞出版,2017
三井住友トラスト不動産,”神楽坂の賑わい”,このまちのアーカイブス,https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p03.html

まちあるき実行委員会撮影
神楽坂と関東大震災
関東大震災の死者・行方不明者は約10万5千人で、我が国の自然災害史上最悪である。そのうち、火災による死者は約9万2千人で圧倒的に多いが、それ以外の約1万3千人のうち、強い揺れで住宅が全潰したことによる死者数は約1万1千人とこれまた非常に多い。この数は兵庫県南部地震による直接の死者数約5千5百人や、我が国で最大級の内陸直下地震と言われている1891(明治24)年の濃尾地震の7千2百人を遙かに上回るものである。地域別には、震源域の直上で震度7の激震地区を広くもつ神奈川県がその約半分を占め、人口密集地の東京市を含む東京府がそれに次いでいる。この他にも津波による死者200~300人、土砂災害による死者700~800人の大半も神奈川県で発生している。
(kouhou039_20-21.pdf,内閣府防災情報,1923(大正12)年関東大震災)
以下は東京都東部の被害状況を表した地図である。
(関東大震災:地震・火災マップ,毎日新聞)

神楽坂周辺の住家の全壊率と震度

神楽坂周辺の延焼範囲
隅田川や荒川周辺の昔、水運業で栄えていたウォーターフロント周辺のエリアは地盤が軟弱な分、倒壊や火災の被害が大きかった。
強固な地盤な武蔵野台地上にあった神楽坂は、比較的ウォーターフロントエリアに比べて、被害が少なかったと考えられる。
関東大震災のときの自らの避難のことを書いた 永井龍男/著 『東京の横丁』の「関東大震災」の中に次のような記述がある。「神楽坂下まで来て、私達はみんな思わず声を挙げた。坂にかかるところから、ここは一切今朝までの火災とは無関係であった。潰れた家も焼けた店もなく、私達は呆然と立ちすくんだ。このまま坂を上がって、町へ入って行ってもよいものか疑われた位であった。・・・」
(レファレンス事例詳細,レファレンス共同データベース)
と、言うほどに震災による被害が少なかったことがわかる。
被害地図と合わせて察するに、やはり、神楽坂の坂上は被害が少なく、台地を下った東側は火災や倒壊の被害が大きかった。